2010年02月14日

桃山文化について

安土桃山時代には、都市部において豪商と呼ばれる新興商人が成長し、その富を背景にした豪華で大掛かりな文化傾向が見られる。また信長の政策により、仏教勢力の力が中央では弱まり、仏教主義的な作品が減り、代わりに人間中心、現世的な作風が見受けられる。

茶の湯が流行し、唐物の名物茶道具が珍重された一方で、それへの反抗としてのわび茶も発達した。茶器が大名から家臣への報奨とされたり、茶会が武将と豪商を結ぶなど政治にも影響した。

特筆すべき点としては、天文18年(1549年)のフランシスコ・ザビエル来日以来の南蛮貿易によってもたらされた南蛮文化の影響が挙げられる。まだ小規模ではあったが、日本が初めて西洋文化と直接(中国などを介さずに、正式な形で)触れ合ったという点で重要である。

織田信長の居城であった安土城、豊臣秀吉の居城であった伏見城(桃山)から、このように呼ばれる。特に、豊臣家が全国支配を担った後半を桃山時代といい、この時代を中心に栄えた文化を桃山文化と呼ぶ。ただし、桃山の名称は江戸時代になって廃城された伏見城の跡地に桃の木が植えられたことから名付けられたもので、桃山城と呼ばれる城が存在したわけではない。そのため、歴史的経緯を尊重するなら「伏見時代」の方が適切な呼称となるが、そもそも、安土城は完成からわずか3年余りしか存在しておらず、伏見城(木幡山)も完成から2年後に秀吉が死去するなど、それぞれ在城は短期間であり、これらを時代の呼称に用いること自体が適切ではないという主張もある。そのため、近年は「織豊時代」という呼び方も広まっており、「安土大坂時代」や「天正時代」の呼称を提案する人もいる。

安土桃山時代の始期と終期には複数の見解が存在する。始期は、織田信長が足利義昭を奉じて京都に上洛した永禄11年(1568年)、義昭が京都から放逐されて室町幕府が倒された元亀4年(1573年)、安土城の建設が始まった天正4年(1576年)とする考えもある。終期は、豊臣秀吉が死去した慶長3年(1598年)、関ヶ原の戦いで徳川家康が勝利した慶長5年(1600年)、家康が征夷大将軍に任じられ江戸幕府を開いた慶長8年(1603年)などがある。何れにしても、「織田・豊臣の時代」という概念をどこで区分するかの違いではあるが、室町時代、戦国時代と重複してしまうことが、その定義を難しくしている。

『ウィキペディア(Wikipedia)』引用

織田信長と豊臣秀吉が全国政権を握っていた時代です。

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2008年07月23日

ハイチっていう国をシッテマスカ?

私は知りませんでした。

ハイチ共和国(ハイチきょうわこく)、通称「ハイチ」は、中央アメリカの西インド諸島・大アンティル諸島内のイスパニョーラ島にある国である。東にドミニカ共和国と国境を接し、カリブ海のウィンドワード海峡を隔ててキューバと、ジャマイカ海峡を隔ててジャマイカと接する。首都はポルトープランス。

国名
正式名称は、ハイチ語でレピブリク・ダイチ、フランス語で République d'Haïti (レピュブリク・ダイティ)。通称、Haïti (アイティ)。

日本語の表記は、ハイチ共和国。通称はハイチ、漢字では海地と表記される。ハイチは Haiti のローマ字読みで、現地では通用しない。

ハイチは、先住のタイノ族・アラワク族の言葉で、「山ばかりの土地」を意味する。

植民地時代
詳細はサン=ドマングを参照

1492年にクリストファー・コロンブスがイスパニョーラ島を「発見』したとき、この島にはアラワク族が住んでいたが、それから四半世紀のうちにスペインの入植者によって絶滅させられた。金鉱山が発見され、先住民のカリブ族が奴隷として使役され、疫病と過酷な労働で次々と死んでいった。その後、スペインは主に西アフリカの黒人奴隷を使って主に島の東部を中心に植民地経営をした。島の西部をフランスが1659年以降徐々に占領していったが、衰退の一途を辿るスペインにはそれを追い払う余力はなく、1697年のライスワイク条約で島の西側3分の1はフランス領とされた。この部分が現在のハイチの国土となる。フランスはここを、フランス領サン=ドマング (Sant-Domingue) とした。この植民地は、多くのアフリカ人奴隷を酷使し、主に林業とサトウキビ・コーヒー栽培によって巨万の富を産みだした。
(以上、ウィキペディアより引用)

ライチしか知りません。

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2008年04月14日

レコンキスタ

レンコンのことじゃありませんよ!

レコンキスタ(スペイン語: Reconquista)は、718年から1492年までに行われたキリスト教国によるイベリア半島の再征服活動の総称である。ウマイヤ朝による西ゴート王国の征服と、それに続くアストゥリアス王国の建国から始まり、1492年のグラナダ陥落で終わる。レコンキスタはスペイン語で「再征服」を意味する。ポルトガル語では同綴でルコンキシュタという。日本語ではかつてクリスチャン側の視点に従い国土回復運動(こくどかいふくうんどう)と訳されていたが、近年ではムスリムの視点も考慮し再征服運動(さいせいふくうんどう)と訳されるようになった[要出典]。

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ムスリム勢力のイベリア侵攻
ムスリム勢力のウマイヤ朝が711年にイベリア半島へと侵入した。ここでは侵入前後からレコンキスタの開始、ウマイヤ朝の後継である後ウマイヤ朝滅亡までをみる。

ウマイヤ朝の侵攻と西ゴート王国の滅亡
6世紀初頭、フランク王国との戦いに敗れ、国家の重心をイベリア半島へ移した西ゴート王国は、約1世紀をかけて半島全土を支配下におさめた。589年にキリスト教アリウス派からカトリックに改宗していた西ゴートは、イベリアのカトリック化を推進した。

一方、661年に建国されたイスラーム国家のウマイヤ朝は、積極的な拡張政策によって急速に勢力を拡大していた。8世紀初頭までに北アフリカの西端まで版図を広げていたウマイヤ朝は、710年、ジブラルタル海峡を越えてイベリア半島に上陸した。この時は一部の都市を襲撃しただけだったが、西ゴート側の抵抗が弱いのを知り、本格的な遠征軍を組織しはじめた。

翌711年、ターリク・イブン・ズィヤード率いる遠征軍がジブラルタル海峡を越えた。同年7月19日、ターリクはグアダレテの戦いで西ゴート軍に壊滅的打撃を与え、国王のロドリーゴを戦死させた。王が死んだ西ゴートには後継がおらず、その混乱に乗じてウマイヤ朝は支配領域を拡大していった。710年代の終わりまでに、ムスリム勢力はイベリア半島を北上し、カンタブリア山脈以北およびピレネー山脈以北までキリスト教勢力を追い詰めていった。この頃、イベリア半島南部はイスラム風のアル・アンダルス(ヴァンダル人の地の意。現アンダルシア)と名前を変えた。

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征服した土地では新たな統治が始まっていた。ウマイヤ朝はイベリア半島のキリスト教化を推進した西ゴート王国に比べて、宗教に寛容だった。ムスリムは被征服者に対して改宗を強制しなかったが、その代わりにジズヤ (人頭税) を要求した。ユダヤ教徒、キリスト教徒の区別なく、ジズヤを納めれば信仰を保持できた。ただし、ある種の社会的格差は存在しており、そのためにイスラム教に改宗するものが相次いだ。また、高額のジズヤが納められずに北部へ逃亡するものや反乱に加わるものも少なくなかった。
(以上、ウィキペディアより引用)

すごいことだね!